酒保開ケ。WEB

拾った命で後悔はしない、というつもりだった。

第16回
1年半ぶりのハンドル 2020年2月~2021年8月

復職し社に貢献し、そして得た賃金で家族を養う。それが病気を克服する最大の目的であり目標であり、時には現実に打ちのめされそうになる自分が、さらに前進するための最大の拠り所となっていた。

しかし、それはタテマエでのこと。せっかく生き延びたので、おおいに残りの人生を楽しみたい。当然、そんな気持ちも並行して持っていた。私の趣味である「遠くへ出かけて写真を撮って、ブログやWEBで公開する」を、復職し、ようやく、憚ることなく堂々と取り組むことができるようになっていた。他に解決すべきこと、注意すべきこと、改善せねばならないことは仕事を中心に山積していたが、それはそれとして、やりたかったこともこれからたくさん楽しもうと期待に胸を躍らせた。

遠くへ出かけるにあたって、クルマでの移動は必須だった。理由は第19回を読んでいただければと思うが、ネット上の情報や、同じ病に罹った方の手記が最も参考になったのが、この「運転の再開」についてのものだった。私がこの病気についての手記を残そうと思い立ったのは、自分がそうであったように、同じ病で倒れた方に少しでも役立てば、と感じたことによる。

私のような病気になった者が、再び自動車の運転をしようとする場合、いくつかのハードルを超えてゆかねばならない。運転中に脳疾患に陥り、重大な死亡事故を起こしたタクシー運転手のニュースなど記憶に新しい。

健常者は気にも留めないだろうが、運転免許の更新をおこなうとき、まず健康状態の「問診票」に記入する作業があることを思い出してほしい。脳疾患がある者は、ここで必ずひっかかるように設問ができていた。もし虚偽の回答をすると厳しい罰則が待っている。

復職の翌月に免許の更新があったので、更新時に「臨時適性検査」をおこなうことになった。これをパスできれば、運転再開への第一関門をまず突破できた。それは今回の病に罹った自分にとって、復職と同じくらいに重要な、大きな「通過点」であった。検査の詳細は、ヒントを教えることにもなるのでここでは書かないが、まあ健常者なら造作もないような簡単な試験なので、自分でも問題なくパスした。

もうひとつ、こちらがより重要なのだが、医師の診断書が必要だった。「この人は車の運転しても、まあ大丈夫だよ」という、医師のお墨付きをもらう必要があった。これを最初、世話になったリハ施設の先生に依頼したが、診断書は出せないと断られてしまった。お前は運転はできない、ということではなく、たんに自分には判定できない、という理由だったかと思う。これには少なからず落胆した。車の運転ができなければ、以前の仕事を以前のように行うことに困難が予想されたし、何よりも自分の趣味にも大きなくさびが打ち込まれるような、重大な事態であった。

だが、かかりつけの地元の医院に頼んだところ、簡単に出してくれた。普段は爬虫類のような顔をしてとっつきにくい、好きではない先生だったが、いっぺんに大好きになってしまった(笑) ただ何かにつけ、その後運転はどうですかと聞いてくるので、OKを出した不安はもちろんあったに違いない。そこをおして診断書を書いてくれた先生には感謝の言葉のほかを知らない。

年明けすぐ、2020年1月8日をもって、私はドライバーの一人として念願の復帰を果たした。ただしブランクは1年半に及び、これを解消するために、まず県警の運転免許センターのコースを借りて練習をした。車持ち込みで、免許保持者の付き添いがあれば1時間5千円くらいでコースを走行できた。同乗者は妻で、以後、公道での運転のさいも必ず同行してもらった。

以降、時勢はコロナ禍で、出かけることもままならず、なかなか運転の機会はなかったが、1年半の間に感覚は取り戻せた。運転にはやはり眼帯を装着した。意外にも、今回、運転を再開するにあたっての最大の障壁は、高次脳の頭でもなく、障害のある右眼でもなく、たんに1年半遠ざかっていた運転への「慣れ」を失ったことだった。

くだって2021年9月。以前の仕事へ復帰することになり、再び仕事で自動車を運転する日々が戻ってきた。その初日、運転を始めると、少なからず違和感を覚えた。自分ひとりで車の運転をするのは、2018年8月以来、3年振りであることに、車が動き出してから気づいた。それまで、助手席には必ず妻がいてくれた。高次脳の夫の運転する車の助手席に座る気持ちは、とても愉快とは程遠いものであったろう。それに気づき、本当に感謝の気持ちで胸がいっぱいになり、動き出した車をいったん止めなければならなかった。(この回終わり)