拾った命で後悔はしない、というつもりだった。
第6回
退院 2018年12月
11月末に、退院し、自宅へ戻った。
月内に何度か帰休していたので、あらためて感慨にふけることもわずかだったが、束縛がなくなったかわりに、自己責任の範囲が拡大された。それは自分の注意如何で、生命の危機すらありえる状況になることを意味した。
まず墓参を済ませた。ご先祖様へ退院の報告と、見守っていただいたことへの御礼、というところだろうか。以前の私であったらおざなりで済ますようなことだったが、さすがに死にかけると、いま生きていること自体が何かの加護によりもたらされているのだと、多少なりとも考えるようになっていた。謝意を込め、見えない力に向かってしばし手を合わせ、こうべを垂れた。
12月中は、通院以外は自宅にいた。たまに散歩したり買い物に出る程度。この頃の、散歩をしている私の姿を残した写真と動画が残っている。8月の肥満体とは別人級の「しぼんだ」自分だった。のち診断書にも記載のある「左半身運動失調、発動性低下」を示すように、肩のだらんと下がった自分の姿が写真に残っている。散歩には、通勤で使用していた手提げかばんを携えていた。自分としては、またもとのように歩いて通勤できるのか確かめたかった、というか、またもとのように一日を過ごせるのか、確認したい気持ちが大きかった。それでかばん携行なのか、と問われればたしかに意味不明だが、妻は、ジャージ姿でビジネスバッグを持って散歩に臨む夫の姿に、少なからず不安を覚えたようだ。とにかく、また元のように戻り、日々を過ごすことができるのか、どんなことでも、それを確かめて安心したい一心の行動だったと思う。
街なかのリハビリ施設の案内を取り寄せて、通う準備を始めたが、自分には身体のマヒはなかったので、結局そうした施設のお世話にはならなかった。一度、「見学」には行った記憶がある。もし身体にマヒがあれば、高次脳のリハビリと並行して、つらいフィジカル的なリハビリもこなさねばならず、加えて復職までの時間もさらに長くかかっていたのかもしれない。
社にも、退院後第一週目の金曜に訪問して、夕方だったが在社の方々には謝辞を述べてまわった。第5回の、社内が山小屋風のイメージを受けたのはこのとき。その日は部の忘年会で、取引先関係者様を招待して何百人規模の大宴会が毎年、行われていたが、この日がその日だった。もちろん忘年会には不参加だったが、以前と変わらず接してくれる仲間に、ただただ、ありがたく感謝するのみだった。
12月中旬より、年賀状の作成をおこなった。家族全員のはがきを自分が作る、歳末恒例のルーティーンだった。自分でよくわからないのは、それまでは例年、年賀状ソフトで作成していたものを、この年に限ってWordの差し込み印刷でおこなっているところだ。なぜわざわざ慣れない作業を選んで作成したのかよく思い出せないが、宛先により微妙に変化をつける挨拶文や、表示される連名の宛名など、細やかな作業をよく仕分けしてやりきっている。まあ、時間も無尽蔵にあったのだが、面倒はさっさと片づけたい気持ちは、健康不健康にはあまり関係ないようだ。
退院して1ヶ月半、年明け1月中旬に、大学病院に数日入院して、目の手術を受けた。発症してから入院中は、ほとんどの時間を眼帯をして過ごしていたが、右眼の視界がひしゃげて波打っているのにはもちろん気づいていた。これの治療をしてくれるものと期待して入院したが、いまだ治癒せず、眼科の先生には、それどころか「もう治らない」と宣告を受けた。結局手術は何のためにおこなったのかといえば、将来の白内障に備えてレンズを埋め込んだとか、そんな理由だった。この右眼の障害は結局、この病に罹ったことによる、自身の最大最悪の損失となって、現在にいたる(この回終わり)。