酒保開ケ。WEB

拾った命で後悔はしない、というつもりだった。

第5回 3ヶ月ぶりの帰宅 2018年11月

入院中や退院直後の自分の記憶には、今思うとあいまいなものや、現実のことか区別がつかないことも少なからず存在する。第4回の引っ越しのさいの荷物置き場になっていた部屋もそのひとつだ。ちなみに自宅のマンションのエントランスは小さな池か船溜まりのような場所に橋を渡した先に置かれていて、自宅に帰るにはその橋をわたってエントランスに入っていくしくみになっていた。なぜこんな空想の場所がイメージされるのかまったく理由はわからない。

今は毎日通う、会社のフロアも退院直後の印象は現実とはかなりかけはなれたものだった。室内はなぜか山小屋風で、ロッジのようなつくりになっていた。昔、学校の教室にあったような石油ストーブが置かれていたようなイメージもある。無論、設置されているはずもないし、丸太で組んだロッジ風の室内でもない。それらのイメージは時間が経過して過去を振り返る際に、かなり改ざんされて自分の記憶に刻みこまれていった。死にかけて、入口まで見学に行った「あの世」の風景の一部を見てきたと、いまは自嘲気味にそう考えるようにしている。

また、近所の道路を先に進むと、どこへつながっているのか、ところどころ思い起こせない場所があった。近くまで行くと思い出すのだが、頭の中でその場所の地図を描くことができなくなっていた。これを高次脳機能障害のうちの地誌的障害といい、外出時に自分がどこにいるのかわからなくなり迷子になるなどがおこるとのことだ。出かけてその場所に行ってしまえばさすがに迷子にはならなかったが、自分の障害の重さを思い知る出来事のひとつだった。

前後するが、誕生日の11月中旬に2日間の帰休の許可がでた。11月いっぱいで退院であることはこれ以前の早い段階ですでに伝えられていた。その直前の勤労感謝の日の三連休にも一時帰休がもらえた。好きなものをたくさん食べようとワクワクしていたが、いざとなると食欲はあまり湧かなかった。

3ヶ月ぶりに帰宅すると、8畳が長男、6畳の部屋が次男の「個室」になっていた。以前は8畳が家族4人の寝室、6畳が「こども部屋」だったもので、自分たち夫婦は子供たちの勉強机があった和室に寝ることになった。妻の独断とはいえこれはもともと、子供が成長したらいずれはそうする予定でいたので、あまり驚かなかったが、自宅にはもうひとつ、大きな変化が起きていた。玄関、浴室、トイレ、洗面所の壁面に、ゴツい「手すり」が設置されていたのだ。命は取り留めても、身体には重い障害が残る可能性が高いとでも医師に言われていたのか、妻には相当の「覚悟」と「諦め」が当時、あったに違いない。これらの器具の設置について妻に聞いても、サービスでつけてもらったとかよくわからない理由ではぐらかされるばかりだった。結果、自分には身体のマヒは出ず、幸いにも手すりは「無用の長物」となったが、この人には本当に苦労をかけた。

帰休中、自分のPCに触るのは楽しかった。以前と変わらない自分の「小宇宙」だった。何をするでもなくネットサーフィンなどを楽しみ、翌日14時には病院に戻った。

今回、記事作成で妻と当時のことを話していて、思い出したことがある。じつはこの翌週も帰休の許可が出て土日に家に帰ったのだが、これは忘れていた。土曜の夕方から具合が悪くなり、19時半頃に病院に戻った。ふだん、ざわざわせわしない病棟がもう夜で静まり返っていたのを思い出す。具合が悪くなったというのも、どこか痛むとか、身体に目に見える異常があったとかではなく、気分がすぐれないとか、動悸がする(ような気がする)とか、熱っぽい(ような気がする)とか、内面的な要素の強いものだったように記憶している。看護師の方に「あら、どうして帰ってきちゃったの?」と言われた記憶がある。自分は身体はそこそこの痛みには耐えるようにできているみたいだが、こうした内面的というか精神的というか、その類の負荷には幼少時より弱い傾向があった。だが結果、たいしたことにはならず、翌日も午前に再び帰宅して過ごし、夕方に病院に帰った。

あと、病室にいることがデフォルトとなっていた自分にとって、病室以外の場所に寝泊まりするのは久しぶりで、しかも当初、自宅が自分の住居ともよく認識できておらず「オレは今夜、ここに泊まっていいの?」と妻に聞いたらしい。それは部屋のレイアウトが大きく変わっていたこともあるかもしれないが、懐かしい自宅に戻っても、その自宅で過ごす以前の自分をなかなかイメージできずにいたからかもしれない(この回終わり)。