酒保開ケ。WEB

拾った命で後悔はしない、というつもりだった。

第3回
転院 2018年9月

発症より1ヶ月半、ようやく地元の市立病院へ転院することになった。直線距離にして40kmほど離れた場所に移動するのに、専門部隊?により丁重に運ばれたが、輸送費が3万円かかった。転院は、脳卒中によって影響を受けた健康状態が、急性期から回復期へ移行してきたことを意味した。一般的に急性期は発症より2週間とされるが、私の場合、県立病院からの転院まで6週間を要した。これはHCUでの診療の過程で水頭症の兆候が見られ、腰からカテーテルにより脳の水を抜く治療が加わったためだ。

転院先の病院は脳卒中専門の施設で、リハビリをメインにおこない、環境としてはこれ以上ないものであった。そしてその場所は私が20代の大半を過ごした自宅に至近で、巡り巡ってまたその場所に戻ってきた運命に、深い感慨を覚えずにいられなかった。だがそれは今だから思うことであり、入院当時はそこがどこであったかいまひとつ理解はできていなかったように思う。むしろ「その場所」だったからこそ、おぼろげに自分の現在地を何となく把握できていた。別の見知らぬ場所だったら、県立病院にいたとき同様、自分の現在地には関心が向くことすらなかったかもしれない。

転院するにあたって、院内の生活についての注意やルール、必要なもののリストなどが記載された小冊子を読んだ。この時の内容はいまでも何となく覚えていて、これが発症1ヶ月半の状態でよく理解できたなと思う。この後の回にも登場するが、記憶は、想起するにあたって、トリガーが残ればそれをきっかけに覚え、いつまでも残っているようだ。逆に日々のルーティーンのような、反復する内容の情報は、上書きされ、あっという間に忘却の彼方へ失われていった。前日の夕食のメニューなどは、今でもなかなか思い出せない「ルーティーン」的な情報だ。

毎日のスケジュールはだいたい以下のようなもの。

朝食を済ませるとリハビリが始まる。このリハビリの内容がまったく思い出せない。心理の先生とのお話は何となく覚えているが、いわゆるフィジカル的なリハビリがどうしても思い出せない。妻の見舞いも昼とか休日が多かったので、私がリハビリに取り組んでいる姿があまり記憶にないと言っている。階段を昇り降りしていたということだが、そう言われればそんな覚えもある。とはいえ、私は身体にマヒはなかったので、いわゆるリハビリ的な運動や訓練はあまり必要でなかったのかもしれない。昼食を挟み午後もリハビリが続く。夕食をとり、自由時間があって21時には消灯になった。

一人、若い女性の看護師がいて、冷たく厳しい態度がいやで、予定表にその人の名前があるとげんなりしたのを思い出す。その他は散歩もリハビリの一環だろうか、施設内を先生に付いて周回した。秋の傾いた陽を浴び、のんびり散歩した記憶はいまも強く頭に残っている。週2回くらいで個浴と呼ばれる入浴時間があった。入れ、と命令されて入る風呂が楽しいはずがなかった(笑)。土曜も半ドンでリハビリがあったが、日曜は休みだった。あまり歩き回れなかったので読書かスマホ・タブレットに触って暮れた。テレビも視聴できたが、観た記憶がない。また、この病院も社の顧客だったので、会社のみんながたまに見舞いに来てくれた。このころになると自分としてはずいぶん回復してきた実感があったが、面会者にはまだまだ相当にやつれ疲弊した姿に映ったようだ。

この頃の印象深いものとして、「弾性ストッキング」がある。簡単に説明すれば、下肢の静脈の血流を促す「靴下」である。これにより血液の還流を促進させる効果がある。要は頭まで正常に血流が巡るために履くのだ。外見は野球のストッキングとほとんど同じもので、むしろ懐かしさを感じるアイテムだったが、これを退院してからも数か月履き続けた。いま知るとなるほどと思えるが、当時はこのやぼったい靴下はいつまで着用すればよいのかと、いやでしかたなかった。

この当時、日々、私は自分の「この先」をどうとらえていたのだろうか。漠然と「家に帰りたい」「仕事に戻りたい」くらいは考えていたと思うが、あまり記憶がない。やりたいこと、期待すること、また不安なことや恐れることも、まだまだ深く考える余裕のない段階。靴下を履いたり散歩したりすることが何のために必要だったのかは、たぶんごく浅い部分でしか理解はしていなかったように感じる。(この回終わり)