拾った命で後悔はしない、というつもりだった。
第2回
空白の45日間 2018年8月、9月
私のgoogleMapのタイムラインには、妻が私のスマホを持って県立病院まで電車で通っていたことを記録に残している。毎日、ではなかったが、足繫く、の形容にあうレベルだ。だいたい昼過ぎに自宅最寄り駅を出て、1時間かけて県立病院に着き、1~2時間ほど滞在して帰路につき、18時半くらいに帰宅していた。妻は前年に介護の資格を取り、老人ホームで働き始めたばかりだったが、私の病気のために退所せざるを得なくなっていた。
仕事でも職場に多大な迷惑をかけていた。とくに専門性の高い自分の業務は代役を立てることもままならず、高い料金を払ってシステム業者に再依頼して完了させた仕事もあったが、当然「持ち出し」となった。
入院した病院は、以前、1年半ほどだったか、営業で訪れていた場所。当然、見慣れた風景や知れた建物内のようすに、毎日触れていたのだろうが、記憶は本当に皆無だ。地元に移送されてきた頃よりようやく記憶が残りはじめるが、県西部の、この県立病院での約1ヶ月半は本当に記憶が残っていない。叔母が80の時にやはり同じ病気となり(自分と同じ50のときにも一度、発症している)、そのまま自我を取り戻せずに1年後に病院で亡くなった。血縁的にこの病気になる因子はじゅうぶんにあったといえるだろう。ここでいう「自我」とは、他者とコミュニケーションを取れる能力、という意味で。
日本人の三大疾病はがん、心臓病、そして脳卒中。このうち、脳卒中には絶対になってはいけないと私は思う。自分の記憶は自分の人生の歴史そのものであり、自分にある相手の記憶も、自分にとっても相手にとっても、かけがえのないコミュニケーションのピースのひとつだ。愛する人が自分のことを覚えておらず、この人の中にもう自分は存在しないと気づかされた時、どんな絶望を感じるのか、あまり考えたくはない。
まったく記憶にない県立病院での記憶だが、2年後に当時の写真の存在を知り、これらが、ない記憶を埋めるうえで大きな役割を果たすことになる。
妻がスマホやデジカメで撮影して残してあったものだが、現在、日常生活を問題なく送っている自分にとって、それらの写真は大きなショックとなって目の前に現れた。ただし少なからず安堵も伴っていて、見ること自体はそれほど苦にはならなかった。戦争に行った老人が戦地での体験を楽しそうに話しているのと同じで、それは自分が生き残ったからに他ならず、これら写真を正視できたのも同じような気持ちからであろう。ちなみに一度、妻にこれらの写真があるが見るかと聞かれたようなのだが、その時は頑なに拒否したらしい。覚えてはいない。
写真は病に倒れた8月15日より3日後の18日から始まる。まず目につくのが「太っている自分」だ。じゅうぶんに90kg以上はあったのだろうが、醜い姿であることに違いない。点滴を吊るす脚?に血だまりを留めるビニール袋がやはり吊るしてあるが、これは脳から少しづつ漏れ出る血液を受け止めるもののようだ。さらにデジタル表示の機器から幾本もの管が伸びて自分に接続されている。
また、しばらくたってからの写真の自分には、両手に格闘家が試合で装着するグローブのようなものがはめられている。「ミトン」というのだろうか、就寝中や無意識の行動で、それらの管を指で外してしまうからで、それを防ぐためにつけさせられたものだ。その他、9月上旬の写真には「拘束帯」のようなベルトを締めているものもある。これも無意識のうちに徘徊するのを防ぐためで、ベルトでベッドに固定されている自分が写真に残っている。右目はこの当時は内側に向かって斜視になっている。今は外側に向かっている。これはどうしてなのだろうか。いずれにしても哀れな姿である。休日は子供たちや両親、弟夫婦が見舞いに来てくれた。もちろん記憶はないが、やはりその時の様子が写真に残されている。
写真の中に、次男が98点を取った漢字テストと一緒に斜視の自分が写っているものがある。親子でテストの数日前から漢字練習をし、模擬テストをしたりして試験に備えた。それは私と子供たちとのかけがえのない親子のコミュニケーションの一部であったが、脳卒中で自分が自分でなくなったら、それらの記憶も自分の中にはとどまらず、子供たちにとっても、父親の記憶の中にその時の自分はもういないと痛感することになる。絶対に脳卒中になってはいけない、と自分が思う大きな理由がこのあたりにある。(この回終わり)