拾った命で後悔はしない、というつもりだった。
第13回
高次脳支援プログラム 2019年5月~7月
長い自宅療養を終え、5月のGW明けより、リハビリ施設に入所することになった。以後10月の復職までの5ヶ月を、バス、電車で1時間ほどのその場所へ通った。その直前に年号が新しいものに変わった。思えば前回に年号が変わった時も、私は家族以外にどこにも帰属しない「世離れびと」で、大学浪人中であった。
リハビリは、7月末までの3ヶ月が「高次脳支援プログラム」、復職までの2ヶ月が「就労支援プログラム」と呼ばれ、高次脳支援が週2,3回で10時~14時半であるのに対し、就労支援は毎日で9時~16時半の拘束と、復職を見据えた内容になっていた。高次脳支援は5人がひとグループとなり、集団行動で講義を受けたり、課題に取り組んだり、体育や施設の雑務、時には調理実習などをおこなったりした。5人のうち、身体にどこにもマヒのないのは自分だけだった。
私はこのリハ施設での5ヶ月間を、可能な限り最短最速で駆け抜け、社会復帰、復職する、そのことだけを考えていた。だからマヒの残るほかのメンバーに対し、ぞんざいな態度で接し、冷たい扱いをしてしまったこともあったかもしれない。こいつらが健康を損ねたのはすべて本人の責任で、自分たちに節制の念が欠如してたからだと、どこかで見下して接していた。この人たちと自分は違うと平気で考えていた。当の自分を棚に上げ、ひどい言い草である。自分にマヒがなかったのは、本当に偶然で幸運だっただけで、自分の努力や他者との優劣の差などまったく関係のないものだったことは言うまでもない。当時の自分には他人のことを思いやる余裕などどこにもなかった。
他の4人の仲間には、翌年定年を控えた60前の男性や、まだハタチそこそこという青年も含まれていた。青年は、ふざけて頭に血を昇らせ、力んで遊んでいたら脳の血管が切れて脳出血し、高次脳になったと言っていたが、にわかには信じられなかった。
取り組んだ課題のうち、印象に残るものとして三つあげると、ひとつに体育の授業がある。みな障害者である。簡単にできる球技や、体を使ったゲームなどをおこなったが、ボッチャという、お手玉を使ったゲームが好評で、最後の授業でもリクエストでボッチャをみなで楽しんだ。東京でのパラリンピックのボッチャのニュースを懐かしくテレビで観たのは、つい昨年のことだ。
ふたつめに、利用者が使用するリネンサプライなどの補充作業がある。タオルなどの数を確認し、不足しているものを倉庫?から補充してゆく。私はこの作業そのものより、リハビリ施設の普段入れない場所の内部に強い興味を抱いた。以前は営業担当として、この施設のあちこちの部屋でお仕事をさせて頂いたが、今回、営業としてではなく、利用者としてこの場所におり、当時知ることのなかった場所にまで「潜入」させてもらい、興味深い半面、そのことに何ともいえぬ皮肉を感じざるを得なかった。
三つめに、調理実習がある。通常のカリキュラムにはないとのことだが、4人のうちのひとりが調理師の方で、このとき特別に組み込まれた。1回目はカレーを皆で作り、好評だったのでボッチャ同様、最後にリクエストで予定に組み込まれ、カルボナーラを作って皆でいただいた。材料は各自が分担して買い物をしてきて用意した。レシートを提出して清算するところまでが課題で、それなりに計算された「訓練」だった。以上の三つが強く印象に残っている。
いま振り返ると、入所者で女性の方には一度もお会いしたことはなかった。くも膜下出血などは女性の罹患率が男性より高く、施設の入所者には女性も必ずいたはずなのだが、マヒの残る姿を異性に見せない、という配慮がなされていたのだろうか。
電車やバスに乗るのもずいぶん久しぶりだった。そもそも交通機関を利用して毎日どこかへ通うのも、勤務先が無理すれば徒歩圏内だったここ15年ではなかったことで、懐かしい感覚だった。朝のラッシュでは若い女性を間近にして赤面し、昼は食事を取ったあと近くの公園を散策、帰りは書店や家電量販店などに寄り道したりした。自分の存在がようやく、この社会の一部として再び取り込まれ、浸透、同化していくのを何となしに感じた。
5人は、微妙な距離感を保ちつつ「仲間」として3ヶ月を過ごした。7月末、グループのお別れのときが来た。4人のうち、ふたりはもう一度このプログラムを繰り返して3ヶ月受講するということだった。その一人の方と最後にお話しした。3ヶ月たっても、ついにあなたの名前を覚えることができなかったと告白された。あらためてこの病気を克服することの困難さと、他の方に比べて自分の症状が幸運にも軽いことを思い知った。翌日から月が変わり8月。復職まであと2ヶ月となっていた。(この回終わり)