拾った命で後悔はしない、というつもりだった。
第15回
復職 2019年10月
2019年10月、私は社に復帰した。病に倒れて400日以上が経っていた。
10月1日は火曜だったが、前日の月曜の朝には部の朝礼があり、一日早く9月30日の月曜朝礼で挨拶をさせてもらって、その日はすぐに帰宅した。ひさびさの出社だったがとくに感慨もなく、明日からの仕事に全力であたることを自分自身に誓った。部の社員の名前やよく使う言葉をIMEに登録したりして気合はじゅうぶんだった。さまざまな訓練を受け準備もできて、日常生活も落着きを取り戻していたこの頃、あまり自分自身に不安はなかった。ここにこうして戻ってくるために、今まであまた艱難辛苦に耐え、準備してきたのだ。あとは会社に家族に、そして自分自身に恩返しをするだけだ、などとけっこうまじめに考えていた。
何かできないことや覚えられないことがあっても、まあそんなもんでそれがいまの自分なのだと達観して仕事に臨んでいた。いい意味での開き直りだったが、新たに一緒に働くことになった管理部門の方々の目には自分はどう映っただろうか。
そんな中、自分はやはり障害者になったのだと、決定的に思わされることがいくつかあった。それらは達観していた自分をして、さすがに肝胆寒からしめる出来事だった。オーバーなようだが、これで通用しなければ、高次脳の自分がこれからどう生きていけばよいのか、根本的に再考してゆかねばならない状況になることも想定された。
ひとつは、復帰して2,3日後のこと。自分の使用するPCについて、システム管理部門の方に聞きたいことがあって電話した。電話は出なかったので、まあいいかと放置した。そして5分後くらいに、着信を見てか、折り返し電話があったが、その時には自分がなぜこの人に電話したのかもう忘れていて、電話に出ることもできなかった。電話したこと自体は覚えているので、余計にもどかしさが募った。
また、現時点の弱点も顕わになった。なぜだろうか、複数人で仕事を共同で進めたり、並行して同じことを複数人で行うことが極端に苦手になっていた。復職訓練中は自分はつねに他メンバーよりは症状が軽く、課題や作業も何でも先んじておこなっていたが、さすがに健常の社員相手に同じ立ち位置は通用しなかった。このあたりつねに後塵を拝するが如く仕事は遅れ気味で、能力がどうのより、気持ちの焦りが先行するようになっていた。
見た目ではっきりわかる障害とは違い、脳の中で起こることを他人に理解してもらうのはなかなか難しい。もちろん、ことさらに自分の障害を声高に喧伝するつもりはなかったが、そのぶん誤解されることもあったと思う。苦手になってしまったことや、皆で協力しておこなっている仕事の時などは、迷惑のかかる前にあらかじめ仕事が遅れることを申し出て、またその仕事自体をお断りして別の業務に変えてもらうこともあった。
外線電話には年明けくらいから対応するようになった。訓練の電話応対とは違い、すべてがリアルだった。以前の仕事では電話に出るのは管理部門の女性の仕事だったので、慣れない仕事であることは間違いなかったが、だからこそ全力でこれにあたった。このころになると、仕事でも遊びでも何でも、全力であたればそこそこソツなくこなせることがわかってきていた。好きかどうかは別として、仕事は持てるキャパをすべて傾注してこれにあたっていたので、細かいミスはあっても大きな失敗はしないで済んでいた。要は、脳を「全フリ」に近い状態にすれば、何とか人並みの仕事ができるのではと思えてきた。まあそんな重要な仕事は病み上がりの自分にはまだ回ってこなかったのだが。
電話で困ったことはもうひとつ。長電話になると、最初に話した内容を記憶にとどめておくことができず、相手に「それは先ほども申しましたように・・・」と言われることもしばしばで、申し訳なさで恐縮しきりだった。
復職して3ヶ月は時短勤務で15時退社だった。まだまだ「お客様扱い」だった。
3ヶ月経った頃だろうか、何かをしながら別の仕事をできるようになってきた。調べ物をしつつ電話に出たり、カタログを見ながらFAXの文書を作成したり、マルチタスクで動けるようになったこの頃より、ある程度の自信を取り戻してきて、仕事に対しそれなりの手ごたえを感じていた。これが自分を活かす仕事の最適解ではないと、周囲も感じていたとは思うが、まずは目の前の仕事に全力で取り組むことにした。(この回終わり)