酒保開ケ。WEB

拾った命で後悔はしない、というつもりだった。

第19回
駅を再び訪れる 2021年7月~2022年1月

私の駅の撮影は、2012年から数え今年が第10期目。5月が期首で、翌年4月が期末となる。第2期には、482駅を撮影したが、コロナ禍の昨期・第10期は、ついにゼロとなった。

2021年7月、ついに、感染の脅威が去ったから、というよりも、撮影できないことに対しシビレを切らし(笑)、撮影を再開、出かけることに決めた。

前提として、クルマでの出動はまだ、なし、とされた。妻から反対された。病気に関し、苦労をかけた妻の意向は絶対だった。クルマなしは、イコール、田舎のローカル線の取材はしないということを意味した。列車の本数が少なく、非効率だからだが、鉄道マニアの方には訝しがられることだろう。駅に行くのに鉄道を使わないのは、やはり邪道と思われても仕方がなかった。しかし本来、その駅に行くこと自体にたいした意味はなく、駅は私にとっては、いわばオリエンテーリングの、木にかかったチェックポイントの札ほどの意味しか持っていなかった。純粋に、遠くへ行きたい、それに尽きた。写真やネットでしか知らない、遠くのその場所を訪れてみたいのだ。

では都会で電車の本数が多ければいいのか、となるが、都会は軒並み感染者が多く、リスクがともなった。そのリスクを冒してでも写真を撮りたいのなら、自粛などせず撮影はもうとっくに再開されていた。外出自粛、リモート勤務などで、都会の各駅は人影もまばら、撮影をするには千載一遇の大チャンスだったが、ここはぐっとこらえた。

結果、ダイヤが濃く(列車の本数が多い=都市)、比較的感染者の少ない場所から、東北地方最大の都市、仙台が選ばれた。他には新潟などが候補だった。

仙台遠征は7月第二週の土、日が選ばれた。午前の早いうちに仙台に入り撮影を開始し、日が暮れるまで仙台の地下鉄の駅の撮影をおこなった。ビジネスホテルに宿泊し、翌日曜日はまだ暗いうちから仙台駅を隅々まで撮影し、前日に続いて地下鉄駅を取材した。2日ですべての地下鉄駅を撮影できた。日曜は午後から雨となった。地下鉄なので天気はあまり影響ないと思われたが、地上駅もまま多く、機材を雨滴から守っての撮影だった。歩数は土曜が5万、日曜が3.5万と、地下鉄の駅の取材らしく、昇って降りて、ひたすら歩いた2日間だった。疲労困憊だったが、大満足の遠征だった。

前述のとおり、コロナ禍で小遣いも貯まり、資金的にはまだ余裕があったので、月末にも仙台行きが計画された。実際に新幹線のチケットを手配し、前回泊まったホテルを再度予約するところまでおこなった。しかしその週のはじめに再び東京に緊急事態宣言が発令され、再度の仙台行きは延期となった。電車は東京から発車するのだった。ちなみにコロナ特例で、JRのチケットをキャンセルしても1割の手数料は発生しなかった。

東京の宣言が解除されるやいなや、再度仙台行きを敢行したのは、10月はじめのこと。前回から3ヶ月が経っていた。北部の仙山線の駅を除いて、市内駅のほとんどを取材し、名取や塩釜など周辺の都市の駅も可能な限り追求した。これは列車の運行本数の多い都市の路線だったからできたことであり、ローカル線の駅へ出向くのはやはり自動車での移動が不可欠であることも、あらためて再確認した。

以降、オミクロン株が蔓延する22年1月まで、週末は小刻みに東京都内の取材を続け、今期の取材駅は131を数えた。本格的な撮影への復帰が間近と思わせたが、オミクロン株の猛威は目論見のはるか斜め上を行き、2022年3月現在、再度、取材は自粛している(4月再開・・・筆者註)。

病院のベッドの上で、夢にまで見た駅の撮影は、実際の「手ざわり」をともなって再び自分の懐に戻りつつある。この夏にはクルマでの撮影を再開させる。これは第12回の冒頭で紹介した只見線駅以来4年振りのこととなる。残念ながらコロナの行く末が知れずのままだが、取材は福島・宮城の常磐線富岡~岩沼間を予定している。この取材を終え、無事帰宅できた瞬間、今回の病気に関するすべての事象に、心の中でひとまず終止符を打つつもりでいる。(この回終わり)