酒保開ケ。WEB

拾った命で後悔はしない、というつもりだった。

第18回
コロナ禍の日々 2020年2月~

1年1ヶ月振りに復職し、今までとは畑違いの管理部門での仕事は、難しいことは特になかったが、日々反復する仕事をなかなか覚えることができなかった。復帰して2,3ヶ月は、仕事を覚えるのに精一杯だった。というか、結局、その間はほとんど何も覚えられず、仕事を教えてくれる方々には少なからずご迷惑をかけた。以前の記憶は保たれているが、逆に新しいことを覚えるのが苦手になっており、これは高次脳のうちの「記憶障害」として典型的なものだった。症例としてはこの逆(古い記憶はなくし、新しいものは残る)もあるらしいが、逆のほうがよかったと思うこともしばしばだった(もし逆なら、以前の部署に戻った現在の仕事はかなり困難になっているだろうけれども)。

人の名前を覚えるのも、意外に苦戦した。仕事で関係する人たちは、リハビリや職業訓練で交わった、施設の方々や仲間を、はるかに超える人数となった。これも、想起するにあたってトリガーとなる何かがあれば、すぐに覚えて問題なかったが、そうではない人の名前はいつまでたっても思い出すことができなかった。あまり聞かない名字の方や、同姓の人が複数いる方の名はすぐに覚えた。その反面、1年近くを要してようやく自然に名前が口からでてくるようになった人もいた。なかなか名前の思い出せなかった人については、過去、関係のあった同姓の人たちに横に立ってもらった。もちろんイメージ上でのことだが、ひとりでは効かない人はふたり立ってもらった。小学生の頃の野球チームの監督と同姓の方がいて、名前を思い出そうとするたび、懐かしい監督さんの顔を思い浮かべた。

そんな具合で、手こずる仕事は必ずしも好きなわけではなかったが、それでも社に復帰できたのは本当にうれしかった。やることをやらねば思い切って遊ぶことなどできない、というのが持論だ。再び働き始めたからこそ、思いっきり趣味も再開できる。

2019年5月から再開させた駅の撮影は、復職をあいだに挟み、翌年2月までで120を超える数に及んでいた。

そんな中、流行り病が蔓延しだした。厄災をこれほどまでに身近に感じたのは、50年以上生きてきて、初めての経験だった。2月末には駅の撮影を自粛した。満足に外出もできず、マスクというお供がいないと非国民扱いの世の中となった。小遣いも使う目的が見当たらず、貯まる一方で、すっかりお金持ちになってしまった(笑)。それら含めて、これまでの日常が一変し、常識が非常識に、日常が異常ずくめの日々が過ぎていった。

せっかく復帰した会社も、自分の問題は彼方に消し飛び、コロナ禍の世界をどう商売してゆくのかで精一杯になっていた。社内からは「飲み会」が消滅した。これを喜んでいる人たちも多いのかもしれないが、なければないでなかなか寂しいものだった。その他社内行事は悉く中止、延期となった。コロナ禍となってから一緒に働きだしたスタッフの方などは、一度も(マスクのない)顔を拝見することなく日々、ともに仕事をすることになった。

日常生活で最も影響が出たのは、やはり「マスク」だった。今やもうすっかり慣れてしまったが、当初は「つけずに」外出してしまうこともしばしばだった。マスクを取りに急いで自宅へ引き返す口からは、

「コウモリなんか食ってんじゃねぇよ」

という呪いの声が発せられた。

だが5月ぐらいだったか、もうコロナも終わり、という雰囲気になり、プロ野球も始まって、社内でもマスクなしで勤務する者もちらほらとあらわれていた。当時の正常な感覚からすれば、その病の終焉は必然で、それがまさに今なのだと思わせる条件がじゅうぶんに整ってきていた。駅の撮影を一時再開させたのも、このあたり、6月くらいだった。ただしその時は始発電車に乗るために駅へ向かい、着くなり激しい腹痛に襲われ、そのまま電車に乗らずに帰宅してしまった。何かを暗示しているようで感慨深いが、撮影再開までにはこのあと、さらにまる1年を要することになった。その他、野球の試合が無観客で行われるのも、何十年と試合を観てきた自分には衝撃的な光景であった。

とはいえ、入院、療養、リハビリと、「非日常」を1年以上も過ごしてきた自分にとって、ふたたび出現した非日常の世界は、さして特別には感じられなかった。なにせ、自分の存在自体が異常、非日常的であり、社内でもまだまだ特別扱いをされていたので、少なくとも社内においては、その日々は非日常の延長線上にあるように感じられた。自分に今さら正常に、と言われても、ピンとこないし、無理な話だった。何より、それらは自分のことではないし、自分のせいでもない。当時はまだまだ、自分の仕事や脳の障害のことで日々、精一杯だった。

人は慣れてゆく。非日常が日常になってしまう前に、この禍々しい世界から脱したいと願うばかりだ。(この回終わり)