酒保開ケ。WEB

拾った命で後悔はしない、というつもりだった。

第7回
右眼と左手の障害 2018年12月~2019年4月

次回で詳しく述べるが、2019年1月、私は「高次脳機能障害」と診断された。自分の頭が「足りなく」なっているのはわかっていたが、具体的にどうなったのかは、診断書がでるまではよくわからないままであった。

体感し、さらに見た目にもはっきりわかる障害は当然、自覚がある。ひとつは右眼の視界の障害、もうひとつは左手のしびれである。「生き死には六分四分」と言われた重症にもかかわらず、くも膜下出血の後遺症がこれだけで済んだのは、本当に幸運だった。

左手のしびれは退院後半年以上、症状が続いたが、以降は気にしなければほとんどないに等しいところまで回復していた。

しかし、右眼の障害は、前回のとおり、眼科の先生には「もう治らない」とはっきり宣告された。当初「テルソン症候群」と診断された。これは硝子体(眼球の中身)に血液が入り込むもので、発症後1年以上経っても、右眼の眼球には茶色い血痕が残ったままだった。これが原因なのかよく知らぬが、右眼の視界は縦に波打っていて、正常な左眼との差異は明らかだった。すなわち、良・不良の2種類の視界が生まれ、それは「複視」となって視界をダブらせた。高次脳で多少頭が弱くなっても、少し左手が痺れても、気にせずやり過ごすことはできたかも知れない。だからこの視覚の障害は、今回の病でもたらされた最大の損失となった。

具体的に危惧したことは、斜視になることと、自動車の運転ができなくなることだった。

当初、左右の眼球は、右眼の障害により、連動しなくなっていた。これは、無意識に正常な左眼の視界を優先してモノを見てしまい、結果、不良の右眼がついてゆかず遊んでしまうことが原因だった。そのほうがよく見えるのだから仕方のないことだったが、次第に右眼の視力が回復してきて(波打ちはそのまま)、視界が悪いながらも眼球が本来の動き(ふたつの目で同じものを見る)を取り戻して、斜視はある程度解消してきた。視界はダブったままだったが、眼帯の穴から見通すことにより、ある程度解消できた。

もうひとつは車の運転である。これものちの回で触れるが、私の趣味は旅に出かけて写真を撮ることで、これに車での移動は絶対不可欠だった。自分の病がどうなるのか先が見えないこの当時、車に乗れなくなることは圧倒的に最大の危機だった。もちろん、仕事でも営業車に乗る。以降の回で触れるが、車には、また乗れるようになって本当に幸運だった。車を運転すること自体はそれほど好きなわけではなかったが、もし、自動車の運転はもうできないと判定されていたら、こんな病気になったことを大きく後悔し、死ぬまで拭い去ることはできなかっただろう。

復職し、働いて金を稼いで家族を養う。それは生き残った自分がなすべき、最大の責務だったが、本心ではそれはウソだ。回復し、車を運転して遠くへでかけ、写真を撮ってブログやWEBサイトに掲載する。これが命拾いした自分にとっての最大の関心事だった。だがこれはこれでいいと思う。当時、それは自分を支えていた最大の拠り所であり願望であり、そして最後に目指すゴールであった(この回終わり)。